がん専門医が末期がんになって分かったこと

日本経済新聞朝刊
2016年6月19日、26日、7月3日、10日に掲載された記事です。



かつて胃や食道のがんを専門にする外科医であり、
医学部附属病院長を務めた経験のある近畿大学の塩﨑均学長。
当時現役の医師であった自身ががんを患い、
完治するまでの発見を、医師そして患者の視点から綴った。

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専門医が末期がんになったら

「医者の不養生」という言葉があるが、
私は胃や食道のがんを専門にする外科医だ。
そうならないように毎年、胃の検診を欠かさず受けてきた。
聞こえはいいが、要は研修に来た若手の医師の実験台を引き受けていたわけだ。

初めて内視鏡を握る医師がスムーズにできるはずもなく、
痛いし苦しいし本当につらい時間だった。
それでも全ては後進育成のためだと割り切ってきた。
ところがある年、あまりの忙しさに実験台になることができなかった。
2004年、私が近畿大学の医学部附属病院長に就任した年だ。

がん治療で高い評価を受けてきた病院で、
当時最先端の検査機器だった
陽電子放射断層撮影装置(PET)の導入を条件に病院長職を引き受けた。
PETを使えばがんの場所や大きさがすぐにはっきりと分かるため、
早期の診断や治療につながると考えたからだ。

PETセンターオープンを控えた05年秋。
検診を受けていなかったこともあり、稼働テストの被験者に院長の私が選ばれた。

検査が終わって院長室に戻ると、
すでにモニターに検査結果が映し出されていた。

「えっ?」。思わず息をのんだ。
専門とする胃がんにかかり、
それがもとで腹部と周囲のリンパ節に転移していたのだ。
進行性の悪質ながんだった。

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精密検査で胃がんのステージ4と判明した。
いわゆる末期がんだ。
専門医として数多くの患者を目にしてきて、
自分が置かれた状況が極めて厳しいことは容易に理解できた。

日本の武士道に共鳴し、人は死ぬとき
「いかにきっぱりと死を受け入れられるか」が重要だと考えてきた。
だが末期がんという現実を突きつけられ、
頭に浮かんだのは「残された命をどう生きるか」だった。

カウントダウンはすぐそこに迫っている。
しかし自覚症状はなく、漠然と半年はこのままでいられそうだと思った。
「ならば、何も治療をせずに残された人生を有意義に生きよう」
その日、考えが固まるとすぐに家に電話した。
自分の病状と治療しない考えを伝えると、妻は気丈な様子で受け止めていた。


放射線治療の実験台に

問題が起きるとすぐに対処法を決断するのが自分のやり方だ。
しかし、自分の命が関わるとそうはうまくいかない。
いったん治療しないと決めたものの、迷いが生じた。
「これでいいのか」。
諦めてしまえば、
医師として救えなかった患者さんの命をも無駄にすることになるのではないか。
そんな思いも抱いた。

当時、ステージ4の胃がん
抗がん剤の投与ぐらいしか治療法がなかった。
極めてまれに薬が効いてほとんどのがんが消え、残りを切除して「治る」人も存在する。
が、自分が担当した患者さんにはいなかった。

他に手がないわけではない。
末期の胃がん患者には効果がないとされていた放射線治療だ。
欧米では一般的だったが、日本人の体質には合わないと考えられていた。
私は悩んだ末、実験台になることを申し出た。

放射線科医は「腸に穴が開くだけです」と止める。
それでも賭けるしかない。
「うまくいけば今後の医療に大きな貢献ができるはずだ」
との思いもあり、不思議と恐怖感はなかった。

午前中は教授室で抗がん剤の投与を受けた後に放射線を浴び、
午後は病院長として通常業務をこなし、患者の回診も行う。
こんな形で治療が始まった。

季節はまだ秋だった。
自分はもう桜を見られないかもしれない。
近大に移るまで勤めていた大阪大のキャンパスの満開の桜がまぶたに浮かんだ。

察してか、妻は家の庭にチューリップを植えた。
顔を出した葉が少しずつ育つ様を見守っていると、
幸せな気持ちになった。

家族と過ごし、庭に咲いた花を眺めるありふれた日々。

そんな日常が本当に貴重なのだとがん
患者になって初めて分かった。

幸い、放射線や抗がん剤との相性が良かったようだ。
発覚から3カ月後、再び陽電子放射断層撮影装置(PET)で検査すると、
全身のがんが嘘のように消えていた。
奇跡だった。
「助かるかもしれない」。今がチャンスとばかりに胃の切除手術に踏み切った。

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執刀したのは他の病院の外科医だ。
腕が自分の部下より上だと考えたわけではない。
病院長であり、教授でもある自分を手術することは
後輩にとって負担になると思ったからだ。

手術は成功し、少しずつだが体調は回復していった。
私が受けた放射線を加えた療法は
現在、標準治療に向け臨床試験が進んでいる。


楽しみな食事でがっかり

これまで医師や病院長として病院側の立場にいたが、
がん闘病をきっかけに入院して初めて見えてきたことも多い。

まずは食事。
患者にとって数少ない楽しみの一つだ。

食べることは生きることそのものであり、極めて重要な時間となる。
だが入院した近大病院で出された料理はひどいものだった。
盛りつけは乱雑で全くおいしそうに見えない。
栄養面は管理されているとはいえ、見た目や彩りは軽視されていた。

すぐに担当者を呼び出し、改善を指示した。

食事の量や調理方法についても患者目線が欠けていた。
胃を切除したばかりの私に、
術前と変わらない固さでご飯が茶わんいっぱいに盛られたのには閉口した。

確かに調理の過程を効率化するのも重要だが、
何とか工夫してほしい。
今では当たり前になったが、患者の病状や年齢、
治療状況などに応じて量や固さなどを変えられるようにした。

病室の棚などの配置にも注文をつけた。
部屋の入り口付近に冷蔵庫があると、車いすや歩行器を使う患者にとっては邪魔だ。
風呂はバリアフリーではなく、洗面台の蛇口も使いやすさを考えて設計されたとはいえなかった。

それでもハード面はすぐに改善できる。
難しかったのがソフト面だ。

とりわけ看護師は患者にとって、
「天使」にも「悪魔」にもなり得ると感じた。

点滴や注射などの技術面は練習で改善できるが、
院内の雰囲気作りや気配りとなると難しい。
患者にとって看護師がいかに身近で大切な存在かを身をもって感じたからこそ、何とか変えたかった。

医師と患者、それぞれの立場から見た「良い看護師」は異なることに気づいた。
例えば指示された仕事をてきぱきこなす看護師。

医師にとっては頼もしいが、患者には冷淡な存在に映ることもある。

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目安箱の活用に力を入れた。
正直、かつては参考程度にしか読んでいなかったが、
全ての投書に目を通すようにした。

医師や看護師の対応や言動を患者さんがどう感じているのか。
良い面も悪い面も職員にフィードバックし、配置などで改善も図った。

「全ては患者のため」。
そう自らに言い聞かせながら行ってきた改革とはいえ、
「細かいところまで口うるさい病院長だ」と
陰口をたたく職員もいたようだ。今では笑い話だが。


悪いことばかりではなかった

大学医学部には教授になると、
手術などの第一線から離れる人もいる。
私はといえば「一外科医である」という考え方は変わらず、
教授になってもそれまでと同様に手術を担当した。

忙しいときは朝8時から翌未明までぶっ通しで勤務し、
朝から通常通り外来診療を行った。

正月も夏休みもない生活だ。
忙しさからか食事量は一般の成人男性の2倍以上、
好きなお酒もほぼ毎日飲んでいた。

患者に対し長年、「暴飲暴食を避け、お酒はほどほどに。
規則正しい生活を」と呼び掛けてきたが、自分は生活スタイルを顧みたことがなかった。

大好きなビールと焼き鳥のおかげか、
がんになる前から血圧がかなり高く、
脂質や中性脂肪などは基準値超え。
いわゆる生活習慣病だ。
それでも大して気にすることはなく、
「患者のため」と全力で働いた。

健康診断や検査は受けていたが、
今考えると「医者の不養生」にほかならない。

がんが判明し、胃の一部の摘出手術を受けたことで、
食事の改善を余儀なくされた。

野菜を中心にバランスに留意し、量は適正に。
おかずや主食を食べる順番まで意識する。
夜はほとんど家で食べるようになり、お酒もほぼ飲まなくなった。
患者に伝えてきたアドバイスの大切さを、皮肉にも痛感した。

「もし、あの時がんが見つかっていなかったら」と考えることがある。
以前の生活を続けていたら、脳梗塞や心筋梗塞で既にこの世にいないかもしれない。

がんになって悪いことばかりではなかった。
患者として気づいたこと、そして自分の生活習慣が大幅に改善されたこと。
得た物を考えると、むしろ良かったのではないかとも思う。

一度人生の終わりが見えたことで、
あらゆる面で物事の見方が大きく変わった。
それまで当たり前だった日常がどれだけ幸せなものかが分かった。

やりたいことは早めに済ませておいたほうがよいと思うようにもなった。

当時の私がそうだったように、今、働き盛りの人たちは
仕事などに熱中してあまり健康に気を使わない人も多いだろう。

だが今日のことばかり考えていてはダメだ。
健康に生きていられるからこそ、やりたいことができ、幸せを実感できる。

生き永らえてみて、心からそう思う。





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