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終末期医療のスペシャリストの最期

終末期医療(看取り)のスペシャリストの最期とはどんなものだったのか?

末期のすい臓がんで余命わずかと宣告された医師田中雅博さん(当時69)。

医師として、僧侶として終末期の患者に穏やかな死を迎えさせてきた「看取りのスペシャリスト」だ。

これまで1,000人以上を看取った田中さんの、

看取りのスペシャリストが見せてくれたありのままの最期、450日の記録。



看取り経験がある人、ない人。

終末期ケアを仕事としている人、そうでない人。

近親者の現在進行形介護者である人、経験済みの人、まだの人等々。

見る方の環境で、さまざまな観方、思い、感想があるだろうと思います。

年を重ねた者にとって、介護される側に回ることになります。

田中雅博さんでさえ、このようになるのかと、勉強させられました。

ありがとうございました。合掌




逝きどき

「逝きどき」

80歳になった。自分はいつ死ぬのだろうと最近考えるようになった。努力の賜物でもなく、世間に必要とされたせいでもなく、永生きするために医療の助けを借りてるのでもない。

たまたま幸運だったから、この年まで生きてこれたと思う。

日本では、高齢社会が現実のものとなり、百歳以上の長寿者の数が昨年9月の時点で6.5万人となっている。問題は、その長寿の内容が問題で、そのうちの80%以上が「寝たきり」老人であるという。

金さん銀さんではないが、長寿で壮健な老人がテレビで紹介されたりもするが、それは例外中の例外であり、希少なケースだからこそ、マスコミも話題とするのであろう。自らの意志や判断もあいまいなままに、延命されているケースが大半である。

90歳以上の長寿者が、果たしてどの様に過ごしているかさえも、 良く判らないのである。

テレビなどに取り上げられるのは、常に超元気な老人ばかりだ。6万人を越える百歳以上の長寿者の80%が寝たきりで、要介護の状態であるという、海の底のような深い世界が広がっていることを直視しようとはしない。

人は生まれて成長し、結婚して子供ができて幸せになったと思いきや仕事に追われ、やがて老いていく。

人生には、生・老・病・死の避けがたい四苦があるとお釈迦さんは言われたが、生きるということは苦に尽きるのかも知れない。

会社員だった若い頃に、炭鉱離職者の人たちが、再就職で会社に大勢入社されて来た。既に60歳近い夫婦の人たちばかりであった。炭鉱での仕事は重労働であっただろうと察するが、閉山したために、止むを得ず、生活のために再就職の道を選んだのだろう。


運搬関係の重労働の仕事を課せられながら、家で待つ家族の生活を背中に負うて働きに来ておられた。これも生きるための苦しみである。

苦とは、自己欲、自己愛の所産であり、欲望や愛情を満たしてれば苦はない筈である。

求めて得られないから苦があるのだろう。

100歳以上になり、寝たきりの生活に何の幸せがあるのだろうかと思う。恐らく本人は決して幸せとは思っていないのではなかろうか、或いはそれさえも考える力を失っているのかも知れない。

私の祖母は文久3年生まれであり、103で亡くなった。その祖母が、私にこの様に言った。“こんな年まで生きていても何の楽しみも無い、早くお迎えが来てくれれば良い”祖母が80歳代の頃であった。

厚生労働省は100歳以上の人が6万人以上(うち女性87.6%)になった要因として、“医療技術の進歩と高齢者の健康への意識の高まりなどが影響していると考えられる”との見解を示した。

しかし、100歳のお祝いとして贈る「銀杯」を純銀製から銀メッキ製に変更した。

寝たきりの老人が何人居ることには触れていない。古くから長寿は周囲に祝福され、めでたいこととして尊ばれてきた。従って100歳になったら純銀製の杯を差し上げ、国民全体で祝ってあげる筈であったのが、100歳になる高齢者が年々増加して行く傾向にあるので、緊縮予算となったのであろう。

高齢者に対する風当たりは、強くなる一方である。医療費、年金、介護も見直しが進められている。しかし一方では、それらの社会的負担が、大きなビジネスの対象になっていることも事実である。それらの予算で食っている世界もまだ少なくない。社会福祉や医療制度が発達すると、老人が増える。

健康保険制度がゆきわたった日本では、老人は手厚く治療され、介護を受ける。

手厚くとは人間的という意味ではなく、そこに大きな予算が支払われるという事実である。

こうして百歳以上の長寿者が年々増加の一途をたどり、それに要する予算もふくらみ続けていく。いま私達は、60歳から90歳までの30年を生きなければならない。

まかり間違えれば100歳以上生きることも有り得る。年々老いが加速する中での30年とは一体どの様なものだろうかと思うが、私自身がその渦の中に入り、迷い、悩みながら日々過ごしている。

漠然とした意識の中にある学生時代に考えていたことは、社会に出て就職する。定年まで勤めてリタイヤする。退職したら旅行、写真、野菜作りなど趣味と余暇をのんびり楽しみ、悠々自適の老後という夢を抱いていた。

しかし、この様な想いは、既に現実的でないことを知った。高齢者世代の年金やケアを負担するのは就労世代であり、更に、やがてそれに加わらなければならない若年層にとっても、リアルな重圧となっていることである。

高齢者世代に搾取されている、という無意識の反発は現在世間にはある。

加えてその高齢者世代の激増と肥大化に日本は直面している。

しからば、この若い人達に「オンブに抱っこ」で良いのだろうかと思う。
看護や介護をうける立場の高齢者の側でも、なんとか少しでも「自立」したいものである。


人には自尊心というものがある。
邪魔者扱いされながら生きて行くよりも、少々つらくても自立して生きる方が良い。
白旗をあげて降参するよりは、その限界までなんとかして頑張りたいものだ。どんな人間でも加齢は大きなハンディキャップである。体力だけでなく、智力も、反射神経も、気力も衰えてくる。それらを受け入れながら、自分の面倒は、努めて自分でみる。

介護をうけない、病院へも出来るだけ行かない、理不尽な税金でも支払う、余裕のある人は年金も受けない。

そして難病や障害を抱えて苦闘している人々に対しては、自分の出来る限りの手助けをする。これからの高齢化社会を生きて行く為には、経済的にも身体的、精神的にも、自立の意識が必要になってくる。

国とか政府とかを当てにしていたら必ず手痛いシッペ返しがくるだろう。


「自立」とは
精神的に他に依存せずに、独立する姿勢を一般的には言うが、私たちは必ずしも自分だけの力だけで立つことはできない。二本の足できちっと立ち続けることは難しいことだ。

日本で腰痛で悩んでいる人が千二百万人いるそうだ。腰痛に関しても「自立」する姿勢が大切であり、何かにすがろうという気持がある限り腰痛は乗り越えることはできない。

腰痛は人間が直立に足歩行を選択したときから、人間の営みと共にあるからだ。腰痛になることを防ぐには立つ姿勢が大切になる。

重力に逆らうことなく、頭から爪先まで、重力の中心線に沿って重心をかさねることが自立の第一歩である。
立つ、歩く、座る、寝る、私たちの生活は、この四つにつきる。

自分の脚で、重力に逆らわずに立ことは、理屈では判っていても自然に楽々と立つことは難しい。まして高齢になると望み通りにはいかない。

誰でも歳をとるとO脚になりがちだ。膝と膝の間に隙間ができてしまう。禅には立禅というのがあるらしいが、座禅より難しいのではないだろうか。

立つだけでも難しいのに、今度は歩かなければならない。高齢期になると、まず歩幅が小さくなる。チョコチョコと小股で歩くようになってくる。そして、速度も遅くなる。姿勢が悪く、歩き方が縮んでくると腰痛になる。

腰痛は立って歩く人間の宿命なのだ。そして、立つこと、歩く事、これに加えて座ること三つがおかしくなると今度はギックリ腰になる。これには予兆があることになる。

80歳になったら
八つの病気を持っていると覚悟すべきだと言われている。

先ず病気がある。二つ目は介護を受けるという問題である。
人は体のどこかが不自由になり、他人の介護を必要とするようになる。
三つ目は経済的な保障である。年金があるから大丈夫と安心してよいのか?子供や孫が居るから心配ないという甘えも通用するか?


「養生」という言葉がある。
人は誰でも病院通いをしたくない。医者の世話にもならずに生きて行きたいと思う。そのためには自分で細心に自分の体をケアするしかない。それには、日頃の養生が必要となる。

しかし、これをしていても病気や事故は本人の意思と関係なく、向こうからやって来る。そうかと言って養生することを疎かにしたら、病院好き、医者好き、毎週あちらこちらの病院まわりを老後の趣味の様にしている高齢者になる恐れがある。

自立というのは、まず「体のケア」に心を配らなければならないと同様に精神のケアとして「こころの養生」が必要である。腰痛の原因としては、生活習慣、姿勢、老化が原因とか様々であるが、心理的要因、心の状態の影響もあるとの説も多くある。

人は生まれて成長し、家庭をもって仕事に追われ、やがて老いていく。それだけの苦労を重ねて生きてきたのなら、老いは楽園であって当然ではないか。

しかし、人生はその逆で、心と体をすり減らし生きたあげくが、寝たきり老人というのは、納得がいかないものである。長命、長寿ということを、必要以上に美化するのは間違いである。

マスコミには、とかく元気な長寿者を誇大にクローズアップする風潮がある。それによって老いに対する幻想がはびこり、己の現実との落差から絶望に陥る人も多い。生命を尊重するということは、人間を自然の一部として覚悟することにより、新たな感動や夢が生まれて来るのではないだろうか。

健康寿命と平均寿命との差10年を縮め、ピンコロリと死ぬことを理想とし、その実現に努力している人も多い。

                           チェンマイ介護研究会 顧問 山岸 宏